日本とバリの信仰で似ているところ
- ayamis2901
- 2月28日
- 読了時間: 6分

バリはヒンドゥー教で日本とは宗教が違うのですが、似ているなと思うところがけっこうあります。
バリは日本よりも信仰や儀式が地域にまだ深く残っていて、バリの信仰を知ること、日本との共通点に気付くことで、忘れられようとしている日本の宗教・信仰を思い出すことにつながる気がしています。
似ているポイントで思い付くのは・・・(ほかにもありそう)
狛犬とバロン(シーサーも)
はちまきとウダン
お供えもの(チャナン)の考え方
ご神木、大きな木の考え方
生~胎盤の信仰
死~風葬の考え方
八百万の神様
教義のない宗教
狛犬とバロン~魔除け
インドネシアでよく見かけるお面が「バロン」。魔除けの神様です。
目がクリクリで、シーサーに似ている気がします。狛犬にも似ています。
特に大荒磯神社の狛犬。
ちなみにバリは建物や家の入口に必ず2匹の見張りがいます。
はちまきとウダン~精神を統一し神とつながる
バリには男性が頭に巻く布「ウダン」という文化があります。ツアーガイドのおじさんはお寺を案内してくれる時いつも頭に巻いていました。
神聖な場にふさわしい状態になるためというほかに、集中力を高め、神とつながる意味もあるそうです。
日本で、はちまきといえばお祭りや運動会などで、精神統一や気合を入れる、という印象です。受験生のマンガでも使われたりします。いずれも、集中力を高め、成功を祈る目的で使われているものですが、精神を統一し神とつながることとは何か近しいものがあります。
お供えものの考え方~「悪霊をなだめて災いを避ける」
バリでは毎朝、道路のあちこちでチャナン(お供え物)が見られます。小さなお花やお米、お菓子が、椰子の葉の器に盛り付けられたお供えもので、毎朝手作りで用意されます。
チャナンは、家や店の入り口、交差点、寺院などさまざまなところに置かれ、一軒の家の中で毎日10個くらい作っているのをみかけました。
地面に供えるチャナンは悪霊へのお供えで、一番最初にお供えすることになっているそうです。悪霊は怒らせると災いをもたらすとされていることから、悪霊に対しても敬意を払い、機嫌を良くしてもらうことで災いを避ける、と考えられているのです。
悪い霊に対してもおもてなしして、機嫌よくなってもらって、祟りを防ぐ、という考え方は日本の神社にもあります。
日本の神道には、荒ぶる神(荒神) と 穏やかな神(和御霊) の両面があるという考え方があります。荒神は怒らせると災いをもたらすとされ、「鎮める」「なだめる」 ためにお供え物をします。京都のにぎやかな祇園祭も、もともと疫病を鎮めるための祭りで、荒ぶる疫病神を祀り、機嫌を良くしてもらうことで疫病を防ぐ という考え方があります。
神奈川にも、疫病神を迎えて歓待してお帰りいただくという正月の風習があります。軒先に供え物をおいて、おだやかに帰っていただくのだそうで、チャナンとよく似ています。
善い神様だけではなく、悪い神様にも捧げを行ってバランスをとるというのはバリの基本的な陰と陽の考え方なのですが、恐れるだけでなく、丁寧に扱い、調和を図るというのはユニークな考えだなと思います。
ちなみに「舞」は神様を迎えるもの、「踊り」は帰っていただくものなのだそうです。踊りでもてなすことで神様の害を避ける意味が込められているとか。
ご神木、大きな木の考え方
「手の届かなくなるくらい太く育った木には神様が宿る」と信じられています。
そのしるしに、バリでは、大きな木には白黒のチェッく模様の布がまかれています。

寺の入口にも大きな木があることが多く、日本のご神木の概念ととても近いです。

ちなみにバリのクヘン寺院のガジュマルはとても大きく、木に登ってさらに上の方に鐘が設置されています。
かつては、木から何か落ちてくることは、不吉なことが起きる予兆であると信じられ、恐れられていました。今でも夜中に勝手に鐘が鳴る日もあるとか・・。

生~胎盤の信仰
バリの古代の暮らしを今も受け継いでいるバユングデの村では、子供が生まれた時の胎盤をココナッツの実の中に入れ、森の中の木につるすという風習があります。
一般のバリ人の場合はこの風習はなくなってしまい、今では壺の中に胎盤を入れて土の中に埋めるのが一般的だと聞きました。胎盤を地中に埋める風習はかつて沖縄にもあり、文化のつながりを感じます。
この風習の背景には、「胎盤が子供にとって重要な意味を持つ」と考えられていることがあります。胎盤になにか悪さをされると子供の身にもよくないことがおきるとされ、子供が悪霊から守られ、無事育つように隠しておくというのが習わしとなっています。
ちなみにココナッツの実は全然隠れてないなと思うのですが、ツアーガイドさんはココナッツの実を見てめちゃくちゃ怖がっていたので、何か近寄れない魔術でもかけられているのかもしれません・・。
死~風葬の考え方
かつて沖縄は風葬の土地でした。バリも現在ほとんどが火葬ですが、部分的に風葬の地域が残っています。自然に風化することで、亡くなった人が大地に帰るという考え方のようです。
ただし、風葬には条件があり、未婚の者や事故で亡くなった者は風葬の対象とされません。あくまで人生をちゃんとまっとうした者だけという括りなのか、、
ちなみにバリは風葬の現場が普通に見学できます。タブーという概念が日本ほど強くないような気がします。

八百万の神様
バリには、山の神様、湖の神様、田んぼの神様、など、様々な神様がいるとされています。
山の神、水の神というのは日本の八百万の神の概念ととても近しいです。
その一方で、バリには唯一神「サン・ヒャン・ウィディ・ワサ(Sang Hyang WIdhi Wasa)」が存在します。
不思議なことに、この唯一神を直接的にまつっている寺はほとんどありません。バリの人いわく、唯一神は目には見えず、「太陽のよう」なものなのだそうです。
「太陽は目で見てもまぶしくて何かよくわからないが、太陽の光が当たっているものは良く見える。だから神は見えないけどそれを感じることはできるのだ」というのがバリ人から得られた説明でちょっと納得でした。
日本の神道でも、世界の一番最初の創造主とされる天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)という神様が実はいます。が、『古事記』『日本書紀』共にその事績は何も記されておらず、『延喜式神名帳』にも登場せず、祖神として祀られたことがほとんどありません。謎の多い神ですが、神を見るのではなくその化身を感じることが良いのかもしれません。
教義のない宗教
バリのヒンドゥー教には、仏教のように「諸行無常」とか八正道(正しい生き方)みたいな、言語化された「教え」がないようです。それよりも、儀式や踊りなど、身体を使った慣習が数多い。
日本も神道には教義がなく、儀礼のみが存続しています。
厳しい教義がないのでみんなのびやかに暮らしている気がします。

教義はないと書きましたが、「カルマ」の存在はバリ人に広く信じられています。カルマというと難しいですが、簡単に言うと「アクションとリアクション」の関係で、行為があれば必ずなにか反応が起きる、そのことをカルマと呼んでいるそうです。カルマの存在を信じているから、バリには悪い人はいない、とも聞きました。確かに盗難は全くないです。
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