石と木に降りる神々 〜諏訪信仰をめぐる旅〜
- ayamis2901
- 6月25日
- 読了時間: 10分
更新日:6月25日
なぜ諏訪を歩くのか
昔から私は「見えないものの気配」に惹かれてきました。森を歩くとき、静かな神社に立つとき、ふと感じる「ここには昔から何かがいる」という感覚。それが何なのか言葉にできずにいました。
そんな私が今回、諏訪大社のことを調べ始めたのは、「神と人がどんなふうに共に生きてきたのか」をもっと具体的に知りたかったからです。祈りとは、信仰とは、そして自然と人とのあいだには何が流れていたのか――。諏訪には、その手ざわりを今も感じさせる何かが残っているように思えたのです。
この小さな研究は、私自身が「目に見えないものを書く」ための最初の探求でもあります。ここから出会ったたくさんの神々と儀式の層を、ひとつひとつ整理していきます。
第一部 諏訪大社のはじまりと御柱祭
諏訪大社という場所
長野県、諏訪湖のほとり。山々に囲まれたこの地に、古くから続く特別な神社があります。諏訪大社――上社(本宮・前宮)と下社(春宮・秋宮)の四つの社から成り、日本でも有数の古社と知られています。主祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)。
けれど、ここに流れているのは「古い神道」と一言で言うには複雑すぎる、もっと重層的な信仰の世界です。
この地では古代から自然そのものが神とされ、山や石、木といった存在が神霊の宿る場所と考えられてきました。建御名方神が祀られる以前から続くそうした自然信仰が、今もなお神事の根底に息づいています。
(写真は、前宮の奥で見られた山の神の神社と、山の神古墳)
御柱祭 ― 山の神が降りてくる祭り
諏訪大社を象徴するのが「御柱祭(おんばしらさい)」です。7年に一度、山から大木を切り出し、各社の四隅に御柱を建てる大規模な祭りで、氏子たちの大仕事でもあります。山中から伐り出された大木は、人々の手によって麓まで運び出され、川を渡り、社殿の境内に立てられます。(写真は、前宮に建てられた御柱と、御柱祭のミニチュア)
御柱は、ただの木ではありません。この木は山の神が降りてくるための依り代(よりしろ)となります。一本の木が、山の中で生きていた時にはまだ「神の木」ではありません。人の手で山から切り出され、危険を伴う曳行の行程を経て、神域に立てられるとき、そこに神霊が降り立つと考えられています。
御柱を立てる際に歌われる「山の神様おかえりだ〜」という独特の旋律も印象的です。典型的な神道の祝詞とはどこか違い、南方的、沖縄的な雰囲気が漂います。こうした祈りの言葉に、諏訪の信仰が持つ古層の気配を感じます。
この御柱祭は諏訪独自のものに見えますが、実は世界各地に似た柱の祭礼が残されています。ネパール、インド、メキシコ、ドイツ……。さらに日本国内でも、伊勢神宮のお木曳(おきひき)神事と共通点が見られます。伊勢と諏訪、どちらもヒノキを使い、どちらも「宮川」という名の川を渡って神域へ迎え入れる。祭祀の奥に、古代の共通する自然信仰の名残が透けて見えてくるようです。
そしてもうひとつ、御柱に巻かれる綱の結び方は、伊勢神宮の五十鈴川のそばにある三角形の磐座(いわくら)の形とよく似ています。いずれも、蛇神信仰の痕跡と考えられています。
ちなみに、次の御柱祭は令和10年に予定されています。
第二部 前宮 ― 神と人のもっとも近い場所
前宮 ― 諏訪大社の古層
諏訪大社四社の中でも、最も古く重要な聖域とされているのが上社前宮です。現在の本宮が格式としては上座に置かれていますが、実は「本殿」を持っているのは前宮だけです。これは、前宮がより古い自然信仰の中心であったことを物語っているとも言われます。
かつて、大祝(おおほうり)と呼ばれる神の化身のような存在が、現人神(あらひとがみ)として神社の最高神位に座しました。
神原では、今も神事が継承されていますが、古代の息吹が特に色濃く残されていたのが御室神事(みむろしんじ)です。
御室神事 ― 神と共に籠る

御室神事は、上社の中でも特別な秘儀として伝わってきました。毎年冬の間、上社大祝と神長官(神事実務の最高責任者である守矢氏)をはじめとする神官5名が、境内の半地下に造られた「御室」と呼ばれる小屋に籠り、翌年3月の寅の日まで神と共に過ごします。外界との接触を絶ち、神と日常を共にするこの修法は、まさに「神人合一」の原始的祭祀の姿です。
この御室神事を支えたのが神長官守矢家であり、大祝と守矢家は対となって諏訪の神事を支えてきました。大祝は神そのもの、守矢は神事の実務と神降ろしを担当する巫祝的役割。その分担は極めて特徴的な神職制度です。
守矢家の神事は口伝で代々受け継がれており、文書に残されなかった部分が多く、現代ではその文化が失われつつあるとも言われます。
御頭祭 ― 鹿を捧げる神事
さらに、諏訪最古の神事とされるのが、毎年4月15日に行われる御頭祭(おんとうさい)です。前宮の神前に、鹿の頭(御頭)を75頭分供えるという非常に特徴的な神事が行われます。この供犠(くぎ)儀礼は、古くは命を神に捧げる生贄儀式の名残ともいわれ、ミシャクジ神への祭祀と深く結びついています。

前宮の境内には「神原(ごうばら)」と呼ばれる祭祀の場が広がり、ここで祭祀を行っていました。

祭りを取り仕切るのはやはり神長官守矢家です。守矢家が代々行ってきた「神降ろし」の祭祀の中でも、この御頭祭は特に重要なものでした。
神話によれば、建御名方神は狩猟神として、八ヶ岳山麓で鹿や猪を狩り、民とともに饗応を楽しんだとされます。御頭祭は、その神話の世界を今に再現する儀礼でもあるようです。神前に並べられる鹿の御頭の数は75。この数にも何らかの呪術的な意味が込められているのかもしれません。
諏訪の神々は「狩り」と「山」と「生贄」の世界を通して、今も独特の存在感を放っています。
第三部 磐座と織物と呪術の世界
三つの信仰が重なる場所
諏訪の神事を掘り下げていくと、いくつもの層が積み重なってきたことが見えてきます。ひとつの神話で説明できるようでいて、実は何段にも折り重なった神々の系譜があります。大きく分けると、次の三つの流れが浮かび上がってきます。
① モレヤ系 ― ミシャクジと磐座信仰
最も古いとされるのが、モレヤ氏を中心とした自然崇拝の世界です。彼らは社殿という建築物を必要とせず、磐座(いわくら)や湛木(たたえぎ=神木)に神を迎えました。自然の中に神霊が宿るというアニミズムの形は、まさに日本列島の古代信仰の原型でもあります。そこに降ろされるのがミシャクジ神でした。(写真は守屋記念館内のみさく神社。諏訪大社のご神紋であるカジノキが植えられています。)

ミシャクジは、特定の人格神ではなく、土地に憑く精霊・神霊の総称のようにも考えられます。特に「湛木を伝って神がりてくる」とされ、今でも諏訪の各所にはミシャクジが祀られた古木が残されています。
なお、ミシャクジの鈴と呼ばれる銅鐸もあり、鉄鐸を持った神使たちが各地の湛に人々を集めて、これを鳴らして神事を行ったとされます。

諏訪七石 ― 神が降りる石
この磐座信仰を今に伝えるのが、諏訪七石と呼ばれる7つの神聖な巨石群です。いずれも諏訪大社の周辺に点在し、いまも神域として祀られています。
石の名前 | 概要 |
小袋石 | 諏訪七石中最大。守屋山中腹・磯並社の裏手。中央構造線の断層上にあり「舟つなぎ石」とも。かつて湖が高かった時代、舟を繋いだとされる。 |
硯石 | 上社本宮拝殿前。常に水を湛えるとされ、神降臨の中心磐座。 |
御沓石 | 本宮一之御柱の背後に位置。 |
児玉石 | 児玉石神社に所在。 |
御座石 | 建御名方神の母神が乗った鹿の足跡が残るという伝承。 |
亀石 | かつて千野川神社にあったが洪水で流失。 |
蛙石 | 所在地には諸説あり、現在不明。 |
ちなみに、諏訪大社本宮の硯石は、御柱がこれを囲むように配置されているのが特徴です。前宮と違い、本宮は御柱の並び方が神社に沿っておらず、4つの柱が少し斜めの正方形方で置かれているのが不思議です。神社が建てられる前から御柱があったのではないかと思います。

なお、おこうした巨石の神聖視は、中央構造線という活断層との関係も指摘されます。地殻変動と宗教的世界観が一体となっていた可能性は、非常に興味深い視点です。
また、湛木の代表例として知られるのが「峰の湛え木」で、イヌザクラとして市内随一の大樹です。古くは神懸かり(神降ろし)の儀式が行われたとも伝わります。

② アズミ氏 ― 天白信仰と織物の神ヤサカトメ
次に加わってきたのが、アズミ氏(安曇族)の流れです。アズミ氏は海人系渡来民とされ、南方からの海洋文化・養蚕・織物文化を持ち込んだと考えられています。
特に重要なのが天白信仰(てんぱくしんこう)です。天白神は石棒文化に象徴される生殖神・呪術神とされ、農耕儀礼や呪詛の神格を持っていたと考えられます。諏訪の天白信仰はミシャクジより古いという説もあります。
建御名方神の妃とされる八坂斗女命(ヤサカトメノミコト)は、このアズミ氏系統の神だと伝わります。養蚕や織物を教え、諏訪の繁栄を導いたとされます。そのルーツは、三重県御糸の御機殿神社にまでさかのぼる可能性があります。アズミ氏が織った麻布は、大和朝廷に献上され、伊勢神宮にも奉納されたと伝えられています。
さらに、伊勢の麻生田地区にも天白神の痕跡が残されており、石棒や古墳、呪詛を司る神の系譜が広がっていたことが窺えます。天白神は「呪詛に強い神」ともされ、ヤサカトメにも巫女・シャーマン的な資質が重なっていたのでしょう。
前宮のヤサカトメの墓に不敬を働くと祟りがある、という伝承も残っています。
③ 出雲系 ― 建御名方神とカガセオの影
諏訪信仰の最後に加わったのが、出雲神話に登場する建御名方神です。大国主命の子であり、国譲り神話で敗れ、諏訪に逃れたという神話が語り継がれています。けれど建御名方神の出自にはもう少し複雑な説もあります。
一説には、茨城県の大甕(おおみか)神社に祀られる「カガセオ」と同一視される場合もあります。カガセオは織物の神・倭文神(しどりのかみ)と結びつく神格で、ここでも織物神ヤサカトメとの共通性が浮かび上がってきます。
また、建御名方神は「鹿食免(かじきめん)」という免罪符を全国の諏訪神社を通じて発行し、鹿猟文化と密接に結びついていました。全国に広がる諏訪社の分布は、単なる信仰の拡大だけでなく、実際の猟区支配や生活文化の広がりとも関係していた可能性があります。
守矢家の伝承 ― 神事を支えた血脈
こうした複雑な神事を支えてきたのが、神長官守矢家です。守矢氏は神事の実務・神降ろし・御頭祭・御柱祭の具体的な儀式を司り続けてきました。大祝が「神」であったのに対し、守矢は「祀る者」――実務の巫祝的存在でした。
その守矢家にも、興味深い伝承が残ります。物部氏が蘇我氏・聖徳太子に敗れ滅亡した際、物部守屋の息子の一人が奈良から諏訪へ逃れ、守矢家にかくまわれたというのです。残る二人は秋田と岡山へ逃れたとされます。彼は武麿と呼ばれ、諏訪の守矢神社の近くには、今も彼のものと伝えられる古墳が残っています。

重層の信仰から学べること
諏訪を歩いていると、一本の木の根元に立っていても、目の前の石を眺めていても、そこに長い時間が積み重なっている気配を感じます。この土地には神がいたのだろうな、と思う瞬間もありました。
今回、諏訪の神々を調べながら、私は「一つの物語で語りきれない世界」というものに何度も出会いました。諏訪には、ミシャクジの磐座信仰があり、海人族のアズミ氏がいて、天白信仰があり、出雲神話のタケミナカタが流れ着き、物部の子孫が祭祀を担い…すべてが少しずつ重なりながら、今も共に存在しています。
諏訪を知ると、「重なったままで、別にいい」のかもしれないとも思います。それぞれの文化や祈りが、混ざりきらずに並んで存在している。それなのに全体としては、ちゃんと諏訪の信仰として成り立っている。その柔らかさがいい。
何かひとつの正しい信仰にすべてを揃えようとすると苦しくなります。けれど、「重層のまま生きていく」という選択肢がもしあるのなら。私はたぶん、そういう在り方を選んでいきたいなと思いました。
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