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倭姫命と斎宮 〜伊勢神宮を支えた皇女〜

はじめに


伊勢神宮の歴史を語るとき、必ず登場する二つの存在があります。一つは、天照大御神を伊勢へと導いた皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)。もう一つは、天皇の代わりに伊勢神宮に奉仕した未婚の皇族女性・斎王(さいおう)と、その居所である斎宮(さいくう)です。

両者は時代こそ異なりますが、日本古代の祭祀制度や信仰の姿を理解するうえで密接な関係があります。今回は、倭姫命の巡行と斎王制度の成立、その背景にある民俗的な風習までをたどってみたいと思います。



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倭姫命とは


倭姫命は、第11代垂仁天皇の第四皇女とされる人物です。『日本書紀』や『古事記』、また『倭姫命世記』といった文献によれば、天照大御神の鎮座地を求め、大和国から各地を巡行しました。この巡行は「元伊勢巡行」と呼ばれ、途中で一時的に天照大御神を祀った場所が「元伊勢」として今も各地に伝わっています。


倭姫命の旅路は、奈良県の磯城から始まり、近江(滋賀県)、美濃(岐阜県)、尾張(愛知県)、伊賀(三重県)などを経て、最終的に伊勢の五十鈴川のほとりに社殿を定めたとされます。彼女が巡った地には今も社が残ります。


岩戸社のある岐阜県白髭神社も、倭姫が立ち寄ったとされています。(元伊勢ではない)

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白髭神社の記事はこちら


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斎王制度の原型としての倭姫命


斎王制度は、天武天皇(7世紀後半)の時代に制度化されたと考えられます。新天皇が即位すると、未婚の皇族女性が卜占によって選ばれ、天皇の代わりに伊勢神宮へ奉仕しました。倭姫命は制度上の斎王ではありませんが、彼女の活動は明らかに後の斎王の精神的原型です。


三重県・斎宮歴史博物館の歴代斎王プロフィールでは豊鍬入姫が初代、その次が倭姫となっています。

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倭姫命は、神と天皇のあいだをつなぐ仲介者の役割を担い、天照大御神の御鎮座地を決めただけでなく、その祭祀を司る立場に立ちました。この構造は、後の斎王が果たす役割とほぼ同じです。



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斎宮と斎王


斎宮は現在の三重県多気郡明和町に置かれ、広大な敷地の中に斎王の御殿、役所、神事施設などが整然と並んでいました。斎王はここで日々潔斎し、神宮へ参向しました。


意外なことですが、斎王が伊勢神宮に行くのは「年に三回のまつりの時だけで、しかも内宮・外宮に一日ずつ参宮するだけです。


つまり、斎王はわずか六日の祭祀のために斎宮に滞在していたことになります。

斎宮から神宮までは10キロメートルほど離れており、その間の行列も、小さな群行のように、重要な儀礼となっていたと考えられます。


斎王の祭祀

  • 神嘗祭(かんなめさい):10月頃、その年の新穀を天照大御神に奉る最重要祭祀。

  • 月次祭(つきなみさい):6月と12月に行われる定例祭で、国家安泰と五穀豊穣を祈願。



さらに、斎王は、神の枝に麻の繊維を付けた太玉串を奉ることが主な役目で、正殿に入ることはなかったと言われています。


距離を置くことで神聖性を保つという古代祭祀の考え方があるそうですが、天皇家を神宮の中に入れない地元民の抵抗を感じるのは私だけでしょうか。



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群行と民俗的儀礼


斎王を誰にするかは、ト定といわれる占いで決まります。

海亀の甲羅の腹側を焼いて、ひびのかたちで占ったそうです。鹿の骨も使われたとされます。どちらも海洋民族らしさを感じます。

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神嘗祭に合わせて斎王が都から伊勢へ向かう旅は「群行(ぐんぎょう)」と呼ばれ、20日以上かけて行われました。行列は数百人規模で、役人や女官、荷駄部隊までが同行する大移動です。


道中の村々では、斎王を迎えるための様々な儀礼が行われました。その一つが櫛の献上です。櫛は髪を整える道具ですが、古代では髪=生命力・霊力を象徴すると考えられ、その髪を整える櫛は魂を鎮め、清める意味を持ちました。旅立つ者に櫛を渡すことは「清めと加護」の祈りを込めた行為だったのです。このような贈り物や祓いの儀式は、天皇の使者としての斎王の神聖さを際立たせる役割も果たしていました。



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倭姫命と日本武尊


倭姫命と日本武尊(やまとたけるのみこと)との関係も有名です。東国遠征に向かう日本武尊が伊勢を訪れた際、伯母である倭姫命は彼の武運長久を祈って天照大御神の宝剣を授けました。この剣が後に「草薙剣」と呼ばれるようになる宝物です。


この場面は、倭姫命が単なる皇女ではなく、神器を管理する立場にあり、国家祭祀の中枢にいたことを示しています。



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斎王制度の終焉


斎王制度は南北朝時代の動乱や朝廷財政の悪化により、約660年の歴史に幕を閉じます。最後の斎王は後醍醐天皇の皇女・祥子内親王で、南北朝時代に退下しました。その後、斎宮は廃絶し、建物も失われましたが、遺跡は発掘調査によってその規模や構造が徐々に明らかになっています。


斎王の森からは飛鳥時代の遺跡も発掘されている
斎王の森からは飛鳥時代の遺跡も発掘されている


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斎宮のまわりに残る古墳は、誰のものなのか


斎宮跡の周辺には、今も数多くの古墳が点在しています。

博物館入り口に古墳。説明書きはない
博物館入り口に古墳。説明書きはない

森の奥にもチラホラ、積み上げられたものがひっそりと見える
森の奥にもチラホラ、積み上げられたものがひっそりと見える

多気郡明和町から松阪市、伊勢市にかけて、4世紀から6世紀ごろに築かれた前方後円墳や円墳があり、その姿は斎宮設置以前からこの地が有力豪族の拠点だったことを物語っています。

塚山古墳群。5世紀末から6世紀ごろのものとされ、斎宮より前の時代である
塚山古墳群。5世紀末から6世紀ごろのものとされ、斎宮より前の時代である

大型の古墳は、おそらく伊勢国造(いせのくにのみやつこ)クラスの地方豪族や、その前身となる首長層の墓だったのではないかと考えられます。


伊勢は古代から海上交通の要衝であり、東国や尾張方面と大和政権をつなぐ重要な位置にありました。そのため、大王家(天皇家)と結びついた有力者がこの地に派遣され、一族がここに葬られた可能性があります。


一方で、斎宮の近くにまとまって見つかる中小規模の古墳群は、祭祀や行政に関わった地元の有力者や、斎宮運営を支えた神職系の家系が築いたものかもしれません。とくに、斎王の奉仕には多数の人々が関わっており、その家々が代々この地に墓を構えていたと考えると、斎宮の周辺風景がぐっと立体的に見えてきます。


斎宮が置かれた7世紀末〜8世紀初頭よりもずっと前から、この土地は聖性と権威を帯びた場所だったと推測できます。古墳の存在は、斎宮設置が偶然ではなく、歴史と信仰が積み重なった土地に新たな国家的祭祀の拠点を重ね合わせる行為だったことを静かに語りかけているのです。)




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まとめ


倭姫命の元伊勢巡行と、その精神を受け継いだ斎王たちの奉仕。そして斎宮のまわりに古くから築かれた古墳群は、この地が祭祀と権威の重なる特別な場所だったことを物語っています。


神体に直接触れず、奥に入らないという斎王の慎ましさは現地の祭祀への敬意を感じます。


今も斎宮跡には豪族たちの墓と、倭姫命や斎王たちの祈りの余韻が息づいています。ここは、歴史と信仰が何重にも重なる地なのだなぁ、と改めて思います。



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