伊勢津彦と船形埴輪 ― 古代伊勢湾岸の首長と神話・考古の交差点
- ayamis2901
- 8月14日
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1. はじめに
三重県松阪市宝塚町にある宝塚古墳は、全長およそ140メートルの前方後円墳で、5世紀前半に築かれたと考えられています。ここから出土した船形埴輪は全長約90センチと日本最大級で、当時は赤く塗られていました。これは単なる副葬品というより、伊勢湾岸の水運支配や海人族ネットワークを象徴するものだった可能性があります。
ちょうどこの時代、伊勢国や伊賀、志摩の港や境界を守る神として「伊勢津彦命」が祀られていました。後世には信濃・諏訪の建御名方命と結び付けられるなど、多彩な伝承を持つこの神は、宝塚古墳の被葬者像とも重なります。
2. 伊勢津彦とは
「伊勢」+「津」+「彦」という名は、「伊勢の港の男神」という意味とされます。港や渡し場を管理し、漁業や海上交通を守る一方で、境界や道案内の神としての性格も持っています。
『伊勢国風土記』の逸文には、天日別命と戦って敗れ、東国(信濃)へ退く物語が記されています。江戸時代の地誌や祭礼記録でも、南伊勢の山の神祭で大山祇命・猿田彦大神と並んで祀られる例が見られます。
伊勢津彦は単独で祀られることは少なく、伊勢津姫や猿田彦、櫛玉命と同座することが多く、その分布は三重県伊賀地方から南伊勢〜志摩に集中しています。
3. 諏訪とのつながり
諏訪大社の祭神・建御名方命は、出雲から東へ敗走して諏訪湖に鎮座した神として『古事記』に描かれています。この「敗走して別の地に鎮まる」という構造は、伊勢津彦の物語とよく似ています。そのため、後世に両者が同一視されるようになったと考えられます。
この背景には、古墳時代前期〜中期にかけてのヤマト政権の東国進出があり、宝塚古墳の築造期とも重なります。
4. 宝塚古墳と周辺の歴史
宝塚古墳は5世紀前半に築かれた大規模な前方後円墳で、船形埴輪の存在から、被葬者は伊勢湾の港や水運を押さえていた首長と考えられます。
古墳周辺には弥生時代後期の集落遺跡や水田跡が多く見つかっており、この地では古墳時代以前から稲作や海上交易が盛んでした。こうした背景から、伊勢津彦は「稲作や海運の技術をもたらした祖」としても解釈できます。
5. 伊勢津彦は出雲から来たのか?
伊勢津彦の起源については、いくつかの説があります。
出雲来訪説 出雲から海路で伊勢湾にやってきた海人族の首長がモデルという考えです。勾玉や鉄器など、出雲と伊勢の間で行き来した交易品が根拠とされます。
在地首長説 宝塚古墳周辺の遺跡の連続性から、もともとこの地の豪族であった可能性も高いとされます。
稲作伝来説 稲作や港湾管理の技術を広めた人物が神格化されたという見方で、海人系の性格と農耕神的な性格が融合した存在とも言えます。
6. 神社に残る信仰
伊勢津彦は今も各地の神社にその名を残しています。
伊賀市石川・穴石神社 『伊勢国風土記』の「安志の社」の伝承地の一つで、伊勢津彦=出雲建子命説が伝わります。
伊賀市柘植町・都美恵神社 天櫛玉命と伊勢津彦の関連を示す伝承を持ちます。
長野市風間・風間神社 級長津彦命を主祭神としますが、伊勢津彦配祀説があり、「伊勢から信濃へ退く」物語の終着地とされます。
7. 櫛玉命と櫛玉姫
伊勢津彦の信仰圏では、男女一対で祀られる例が多く見られます。その中で重要なのが櫛玉命と櫛玉姫です。「櫛(呪具)」と「玉(霊力)」を名に持つこの神は港や水運、祭祀を司り、櫛玉姫は神と人をつなぐ巫女神の役割を担ってきました。伊勢津彦と伊勢津姫、櫛玉命と櫛玉姫といったペアは、港や境界を守る祭祀構造の中で自然に組み合わされてきたのです。
8. 玉の流通と二つのルート
伊勢津彦の名に「玉」は含まれませんが、櫛玉命や櫛玉姫にはこの字が入り、古代における玉(勾玉・管玉)は霊魂の象徴であり、首長権威を示すものでした。
玉の主要産地である越後国・糸魚川の翡翠は、二つのルートで運ばれました。
内陸ルート 姫川から松本盆地、諏訪地方を通り、伊那谷や木曽谷を南下して東海地方・伊勢湾岸へ。伊勢津彦が「伊勢から諏訪へ退く」伝承は、このルートを逆にたどったと見ることもできます。
海路ルート 日本海沿岸を西へ進み、能登・越前・丹後を経て出雲国の神門水海や宍道湖周辺へ。そこから瀬戸内海や紀伊半島沿岸を回って伊勢湾へ至ります。この海路は物資だけでなく、人や信仰の交流にも使われ、伊勢津彦が出雲から来たという説の背景ともなっています。
こうした物流と伝承の重なりは、古代の祭祀と交易が切り離せない関係にあったことを物語っています。
9. おわりに
宝塚古墳の船形埴輪と伊勢津彦の伝承は、5世紀前半の伊勢湾岸における港湾支配、広域交易、そしてヤマト政権との関わりを象徴しています。伊勢津彦が出雲から来た海人族であれ、地元豪族の神格化であれ、その神話は宝塚古墳の被葬者と同じ歴史の舞台に立っていたはずです。今も神社や地名に残る祭祀は、古代伊勢湾をめぐる人々の記憶を静かに伝え続けています。
※ちなみに船形埴輪の宝塚古墳の首長としては、一般的には古事記の孝昭天皇の段にみえる天押帯彦命を祖とする伊勢飯高君や『皇太神宮儀式帳』にみえる飯盲乙加豆知などにつながる飯高氏との関わりが考えられています。
後世、この氏族からは、朝廷で従三位にまで昇った飯高宿祢諸高という有力者も現れているからです。これらについても引き続き調べます。
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