DNAが語る、日本人のルーツと旅路
- ayamis2901
- 5 日前
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「私たちはどこから来たのか?」
この問いに、最新の科学が新たな光を当てています。
国立科学博物館で開催中の特別展「古代DNA―日本人のきた道―」では、旧石器時代から古墳時代までの人骨から抽出された微量のDNAを解析し、日本列島における人類の歩みを解き明かしています。
展示では、約2万7,000年前の旧石器時代の人骨「白保人」や、縄文人の復顔模型が紹介され、古代人の姿がリアルに再現されています。また、考古学と自然科学の融合により、祈りやなりわい、交流といった人々の営みが、2万7,000年の時を超えて浮かび上がってきます。
展覧会を通じて得た気づきや考察をまとめました。
アジアから日本へ:遥かなる人類の旅
人類は、約4万年前にはすでに日本列島へ到達していたと考えられています。そのルートには大きく分けて2つが存在します。ひとつは、インドから東南アジアを経て、中国の南を通って九州へ至るルート。もうひとつは、中国の北方からカムチャッカ半島を通り、北海道へ渡るルートです。さらに、東南アジアから海を越えて直接日本へ到着したという説も提唱されています。

縄文・弥生・古墳時代の遺跡の分布
今回訪れた展覧会で照会された遺跡。
やはり縄文時代の遺跡は圧倒的に東日本に多く、弥生時代の遺跡は西日本に集中しています。そして、古墳時代になると奈良県を中心とする関西地方が主な遺跡の分布地となっていきます。

土偶と指紋と風の神
滋賀県相谷熊原遺跡では、約13,000年前に作られた日本最古級の土偶が発見されています。
その大きさは小石ほど。古代の日本人が、すでに「小さなものを作る技術」に長けていたことがわかります。

縄文時代の土偶もありました。体に模様が書かれています。

そういえば、ネイティブアメリカンの伝承では、人が生まれるとき、命の風を体に吹き込む神がいて、その風が通った痕跡が指紋なのだとされているそうです。縄文土偶の模様も、もしかすると「風の通り道」=指紋のような意味を持っていたのかもしれません。
ネイティブアメリカンも、人類史を遡れば日本列島を経由した祖先にルーツを持つとされており、縄文人と価値観を共有していても不思議ではありません。
縄文と弥生:対立ではなく共存から始まった
縄文時代の遺物には、男性性・女性性を象徴する石器や土器も見られます。
三河地域では、弥生時代に入ると、狩猟採集民(大西貝塚)と水田稲作民が近いエリア(白石遺跡)で棲み分けて暮らしていた証拠も発見されています。

つい「縄文 vs 弥生」という対立構造で語られがちですが、最初は協力関係だった可能性も高いのです。
ただし、後になると争いのあとや、惨殺された集落跡も見つかっています。
卑弥呼と箸墓古墳
古墳時代に築かれた最古の大王墓とされるのが、奈良県の箸墓古墳です。3世紀ごろ作られたとされ、卑弥呼の墓ではないかとも言われていますが、DNA鑑定などの記述はありませんでした。今後の研究に期待が高まります。

航海民と海のネットワーク
展覧会では、航海を得意とした人々が、九州から三重、静岡(磯間岩陰遺跡)を経て石巻(五松山洞窟遺跡)へと至る独自のルートで移動し、各地で交易していたことが紹介されていました。これらのルート上の地域は、いずれも豊かな漁場を持つ海辺の土地です。彼らの副葬品にはヤマト政権とのつながりを感じさせるものも含まれており、縄文系の要素を持ちつつも広域的なネットワークを築いていたことがうかがえます。
静岡の遺跡や石巻の五松山洞窟遺跡など、海辺の洞窟を墓とする風習は、かなり限られた地域でしか見られません。このようなローカルな埋葬形式は、独自の信仰や死生観、そして海を介した交流圏の存在を示しているとも言えます。
遺伝子とアジアのつながり
常設展では、Y染色体(父系)とミトコンドリアDNA(母系)を用いたアジア系統の違いを紹介するパネル展示もありました。父から伝わる情報と母から伝わる情報が異なるため、それぞれ異なる先祖像が浮かび上がるというのがとても興味深い。

次は、台湾先住民の遺伝子や文化についても調べてみたくなりました。
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