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境界をつなぐ、とり

更新日:6月25日

にわとりって、ふだんは朝の鳴き声くらいしか意識しないけれど、昔から「境界にいる鳥」だと言われてきたらしい。光と闇のあいだ、眠りと目覚めのあいだ、神さまと人のあいだ——そんな狭間に立つ存在だと思うと、なんだか急に不思議な気配がする。そんな視点で、少しだけにわとりを見つめます。

バリに行ったとき、朝になるとにわとりが目覚ましのように「コケコッコー」と鳴いていて、すがすがしかったのを覚えています。

中沢新一さんによれば、にわとりは古くから太陽の神さまとして拝まれてきたそうです。


実際、弥生時代中期(紀元前3〜1世紀)の遺跡から鶏の骨が出土しており、渡来系の弥生人によって日本に持ち込まれたことがわかっています。


① 鳥とシャーマン

弥生時代の土偶や銅鐸、絵画資料には、「鳥とともにいる人物」が描かれていることがあります。

鳥形の木製品で田の豊作を祈るシャーマン
鳥形の木製品で田の豊作を祈るシャーマン

これは偶然ではなく、「鳥は霊を運ぶ存在」「神さまと人の橋渡しをする動物」として考えられていたからです。


とくに渡り鳥や猛禽類は、天と地、異界と現世を自由に行き来できると信じられていました。神や死者と交信する役目をもつシャーマンにとって、鳥はその媒介役であり、霊の案内人のような存在だったようです。


なかには、鳥のような羽やとさかを模した頭飾りをつけた人物もいます。それは「半分人、半分霊的な存在」として、天と地のあいだに立つシャーマン自身の姿だったのかもしれません。


② 闇を祓う声

にわとりの「コケコッコー」という鳴き声は、闇を祓い、世界に朝を告げる役割を持っていました。


『日本書紀』の天岩戸神話では、天照大神が岩戸に隠れたとき、「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)」=鶏を集めて鳴かせたと記されています。

伊勢神宮の遷宮では、「鶏鳴三声(けいめいさんせい)」という神事があります。深夜、静まりかえった空間の中で、神職がにわとりの鳴き声を三度まねると、「遷御の儀(せんぎょのぎ)」と呼ばれる大切な儀式が始まります。


ちなみに「鳥居」という言葉の語源の一説に、「この長鳴き鳥が止まる木だったから」という話もあります。


③ 天と地の橋渡し──血と卵の祈り

伊勢神宮の遷宮に関わる神事には、「御杣始祭(みそまはじめさい)」や「山口祭(やまぐちさい)」があります。


これらは、新しい社殿を建てるための神木の伐採に関連した神事で、にわとりや卵が供えられると言われています。

斧を入れる前に卵や鶏をお供えし、神様におことわりをする儀式です。


このような儀式は、モンゴルの北方シャーマンの文化とも共通しています。

モンゴルでは、鶏が「天と地をつなぐ存在」として、儀式のクライマックスで首を切られ、血を精霊に捧げるという神事があります。それによって病を治したり、怒れる霊を鎮めたり、新たな霊を迎えたりするといいます。


韓国では、巫女(ムーダン)による神降ろしの儀式で、にわとりの声を聞いて神さまの到来を判断する文化がありますし、バリを含む東南アジアでも、にわとりの声は「見えない存在からの応答」と考えられています。


④ 火と血の象徴──とさかの記憶

にわとりの赤いとさかには、火や血、あるいは命のエネルギーを象徴する力があるといわれています。


そういえば、新潟県信濃川流域から出土した縄文時代の火焔型土器を見たとき、私はどこかにわとりのとさかのように見えると思いました。あの立ち上がる突起装飾は、炎のかたちであると同時に、何かが「立ち上がる気配」を感じます。

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もちろん、縄文時代には家禽化されたにわとりはいません。考古学的には、あの形は火を象徴する装飾とされています。




にわとりは、食卓に並ぶ存在である前に、神と人、光と闇、天と地のあいだに立つ境界の鳥でした、というお話。

たぶん今も、夜明け前の空気や、神社の片隅の鶏の像に、そんな「境界の気配」はふっと漂っているのかもしれない。日常の中にひそむ、静かな異界の名残り。これからも少しずつ、そういうものを探していきたいと思います。

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